2015年03月03日

浅井長政

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天文14年(1545年)南近江(観音寺城下)にて浅井久政の嫡男として生まれる。
浅井家が六角家(観音寺城主)に敗れ長政も六角家の人質となっていた。
しかし長政は六角家への服従状態に不満を持つ家臣達と共に父を無理矢理隠居させ家督を継ぎ六角家から離反する。
その後、上洛を狙う織田信長との同盟により信長の妹「市」と婚姻。信長の上洛を援護し宿敵六角家も弱体化させ、このまま「信長の義弟」として浅井家も順風満帆となるはずだったが、信長の朝倉攻めにより、織田・浅井家の同盟は瓦解した。長政は織田より朝倉家との同盟を重視し朝倉を攻める信長(織田・徳川連合軍)を背後から急襲、追い詰めるも殿(しんがり)を務めた羽柴秀吉の活躍もあり信長は無事脱出(金ヶ崎の戦い)。
一説にはお市の方(長政の妻・信長の妹)が信長に両端を縛った小豆袋を信長に送り、それにより信長は長政の裏切りを知ったという逸話があるが、真相は定かではない。その同年に近江に攻めいった織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が姉川で戦い、浅井・朝倉は敗北する(姉川の戦い)。足利義昭の信長包囲網により、信玄が西上。一時的に織田の近江攻めは和らぐも、信玄の死によって織田の猛攻が再開。朝倉も滅亡し浅井家も織田の軍勢に囲まれる。再三の降伏勧告も長政は拒否し
最後は自害。享年29歳。

追記
六角家、朝倉家、織田家に翻弄され、わすが29歳で没。悲劇の武将ですね。弱冠15歳で六角軍相手に果敢に戦ったなど武勇に優れ、家臣が反対するなか今後を考えて織田家との同盟も結んだり知略にも優れていた武将だと思います。最後はその織田に滅ぼされましたが、それも六角からの独立は朝倉の後ろ楯あってこそとの義理、そして降伏勧告に応じなかった武将としての意地から。知勇備え、義理に厚く、そして武将の矜持も高い。残念ですね。もし長政が朝倉に付かず生きていたら歴史は大きく変わったでしょう。市の方が柴田勝家に嫁ぐ事はなかったでしょうし、そうなれば茶々が秀吉の側室となり秀頼を産む事もなかったはずだし、そもそも近江に義弟がいれば本能寺の変もおきてなかった…すみません、歴史に「もし」はないですね。それを言い出したら全ての武将に言えますね。
ただ、娘のお江は徳川三代将軍家光を産み長政の血は着々と受け継がれていく事になることは間違いない事実です。
posted by SRC副長 at 12:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代の偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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