2015年02月20日

前田利家

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天文7年(1538年)、尾張国荒子の地を支配していた前田利昌の四男として生まれる。若い頃は短気で喧嘩っ早く、派手な衣装を着飾るいわゆる 傾奇者だった。元服後、前田又左衛門利家と名乗り、槍の名手だったため「槍の又左」の異名を持つ。気性の荒さから信長の近習を殺害し追放される等苦労するが、美濃斎藤家との森部の戦いで功績をあげ復帰。信長の命で兄を差し置き家督を次の荒子城主となる。その後、浅井・浅倉との戦や石山本願寺との戦を経て柴田勝家の与力として活躍の場を北陸に移す。北陸方面だけでなく、播磨での戦い等でも武功をあげ、能登一国を治める大名となる。信長亡き後は柴田勝家に従い羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と敵対するも賤ヶ岳の合戦後は秀吉に従う(異説あり)。秀吉に降ってからも数々の武功をあげ、秀吉の天下統一に貢献。豊臣政権下において徳川家康らと共に五大老の一人となる。官位こそ家康のが上だったものの、豊臣姓を賜り、秀吉の嫡子(秀頼)の傅役になる等、秀吉からの信頼は五大老一だった。秀吉亡き後、家康が天下を狙うのを唯一妨げる存在だったが、慶長4年3月(1599年4月)大阪前田家屋敷にて没。享年62歳。
利家が亡くなった事により、家康の天下取りが確実な物となった。

好きな武将の1人です。漫画「花の慶次」では、甥の慶次に冷たくあたったり秀吉に媚をうったり年老いて気が弱くなった描写があったりとあまり印象は良くないですが、実際は慶次と同じ傾奇者。喧嘩っ早く主君信長の側近を口論から斬ってしまったり、秀吉とは友人関係だったんで互いに肩を揉み合ったりとかはしてたみたいですけど、年老いて弱気になるどころか、秀吉への謁見のさい、乗馬したまま城門をくぐろうとした事をとがめた門番に「われ、誰に喧嘩売っとんじゃゴラ〜!」(いや、実際の口調は違いますけどね)とまぁ、年老いても短気なじいさんだったらしいですよ。ただ、嫁さんの「まつ」には結構気を使ってたみたいですけど。どこの家庭でも(うちだけか?)嫁は強しです…ね。
posted by SRC副長 at 05:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代の偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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