2015年02月24日

武田信玄

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大永元年11月3日(1521年12月1日)甲斐国武田信虎の嫡男として生まれる。幼名太郎、元服後に晴信と名乗る。
武田家は甲斐源氏の嫡流で、信玄が生まれた時には既に国固めはほぼ出来上がっていた。信玄は家臣と共に父信虎を追放し家督を継ぐ。その後信濃諏訪に侵攻。諏訪家、高遠家等を滅ぼし勢力を拡大する。その一方で、駿河の今川、相模の北条と盟を結び後顧の憂いを断つと、さらに信濃侵攻を激化、村上家を敗走させ信濃をほぼ手中に治める。しかし村上家等の要請を請けた越後の上杉謙信と川中島にて五回にわたって戦っている(川中島の戦い)。その後、上杉との和睦、信長に討たれた今川義元の所領、駿河への侵攻、北条との盟約決裂を経て織田家とは友好関係を築くも、信長の比叡山焼き討ち、足利義昭の信長討伐令に呼応し、上洛を決意する。三方原の合戦で徳川を破り破竹の勢いだったが、持病が悪化し甲斐への撤退を余儀なくされる。その道中死去(暗殺説あり)。享年53歳。

追記

疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山(疾きこと風の如く 徐かなること林の如し 侵掠すること火の如く 動かざること山の如し)「風林火山」はあまりにも有名ですよね。軍事では信長でさえ怖れた武将です。財政・政治に関しても手腕を発揮し、金山の発掘や大掛かりな治水工事も行い山国の甲斐を発展させました。また、上杉謙信とは川中島で何度も戦った宿敵でありながら、自分の亡き後は謙信を頼るよう子に遺言を残したり、謙信も信玄の死を知って声をあげて泣いたりと、互いに認めあっていたようです。
と、普通に調べたらわかる話はさておき、隠し財宝の話等、信玄には逸話があるのですが、その1つに実は徳川家康の父親だったという説があります。某寺院に徳川葵と武田菱が一緒に飾られているからだとか、家康が武田家を再興しているからだとか、普通に考えたら「こじつけ」感溢れる理由なんですが、DNA鑑定等科学的証拠がない事なんで、逆に「絶対」にない!とも言えないですよね?歴史は新しく発見された物があると日々変わります。現在定説になっている事が10年後には違うかもしれない。歴史に絶対はないんです!ミステリーがあって当たり前だと思います。だから歴史は面白いんじゃないんでしょうか?

posted by SRC副長 at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代の偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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