2015年03月06日

お市の方

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天文16年(1547年・月日不明)、尾張国 織田信秀の子として生まれる。信長とは同母兄妹。絶世の美女だったと伝わっている(織田家は美男美女ばかりだったらしい)。容姿だけでなく頭脳明晰で度胸もあり、信長も市をとても可愛がった。さらに「市が男だったら良い武将になった」とも言わせている。
二十歳の時に近江の浅井長政に嫁ぎ、茶々(後の淀君・豊臣秀吉の側室 秀頼の実母)、初(後の常高院・京極高次の正室)、江(後の崇源院・徳川二代将軍秀忠の正室 三代将軍家光の実母)の三姉妹を産む(浅井長政・市夫妻には男の子が2人いたようですが、市の実子かは不明)。政略結婚だったが夫婦仲はよく、織田と浅井の盟約が瓦解した後もまわりが羨む程の仲だった。小谷城落城と共に織田に投降。信長の庇護下で生活するが、信長が可愛がっていた妹だけあって手厚い待遇だった。信長死後は清洲会議にて柴田勝家に嫁ぐ事になり3人の娘と共に越前北庄へ。その後、勝家と秀吉が対立し、賤ヶ岳の戦いに柴田軍が敗北。北庄城落城と共に自害。享年37歳。

追記
長政同様非常に残念ですし、兄と夫が戦って夫が自害。悲劇ですね。信長からの寵愛は特別だったらしく、実は妹ではなく妾だったのでは?という逸話もあるようです。その流れで、長女の茶々(後の淀君)は信長の娘だったという、とんでもない逸話も。さらには北庄城では密かに脱出して生き延びた説もTVでやってましたね。まあとにかく血筋は徳川将軍家にも受け継がれ現在まで続いている事実だけは逸話ではなく事実ですが…。
posted by SRC副長 at 10:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代の偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月03日

浅井長政

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天文14年(1545年)南近江(観音寺城下)にて浅井久政の嫡男として生まれる。
浅井家が六角家(観音寺城主)に敗れ長政も六角家の人質となっていた。
しかし長政は六角家への服従状態に不満を持つ家臣達と共に父を無理矢理隠居させ家督を継ぎ六角家から離反する。
その後、上洛を狙う織田信長との同盟により信長の妹「市」と婚姻。信長の上洛を援護し宿敵六角家も弱体化させ、このまま「信長の義弟」として浅井家も順風満帆となるはずだったが、信長の朝倉攻めにより、織田・浅井家の同盟は瓦解した。長政は織田より朝倉家との同盟を重視し朝倉を攻める信長(織田・徳川連合軍)を背後から急襲、追い詰めるも殿(しんがり)を務めた羽柴秀吉の活躍もあり信長は無事脱出(金ヶ崎の戦い)。
一説にはお市の方(長政の妻・信長の妹)が信長に両端を縛った小豆袋を信長に送り、それにより信長は長政の裏切りを知ったという逸話があるが、真相は定かではない。その同年に近江に攻めいった織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が姉川で戦い、浅井・朝倉は敗北する(姉川の戦い)。足利義昭の信長包囲網により、信玄が西上。一時的に織田の近江攻めは和らぐも、信玄の死によって織田の猛攻が再開。朝倉も滅亡し浅井家も織田の軍勢に囲まれる。再三の降伏勧告も長政は拒否し
最後は自害。享年29歳。

追記
六角家、朝倉家、織田家に翻弄され、わすが29歳で没。悲劇の武将ですね。弱冠15歳で六角軍相手に果敢に戦ったなど武勇に優れ、家臣が反対するなか今後を考えて織田家との同盟も結んだり知略にも優れていた武将だと思います。最後はその織田に滅ぼされましたが、それも六角からの独立は朝倉の後ろ楯あってこそとの義理、そして降伏勧告に応じなかった武将としての意地から。知勇備え、義理に厚く、そして武将の矜持も高い。残念ですね。もし長政が朝倉に付かず生きていたら歴史は大きく変わったでしょう。市の方が柴田勝家に嫁ぐ事はなかったでしょうし、そうなれば茶々が秀吉の側室となり秀頼を産む事もなかったはずだし、そもそも近江に義弟がいれば本能寺の変もおきてなかった…すみません、歴史に「もし」はないですね。それを言い出したら全ての武将に言えますね。
ただ、娘のお江は徳川三代将軍家光を産み長政の血は着々と受け継がれていく事になることは間違いない事実です。
posted by SRC副長 at 12:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代の偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月24日

武田信玄

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大永元年11月3日(1521年12月1日)甲斐国武田信虎の嫡男として生まれる。幼名太郎、元服後に晴信と名乗る。
武田家は甲斐源氏の嫡流で、信玄が生まれた時には既に国固めはほぼ出来上がっていた。信玄は家臣と共に父信虎を追放し家督を継ぐ。その後信濃諏訪に侵攻。諏訪家、高遠家等を滅ぼし勢力を拡大する。その一方で、駿河の今川、相模の北条と盟を結び後顧の憂いを断つと、さらに信濃侵攻を激化、村上家を敗走させ信濃をほぼ手中に治める。しかし村上家等の要請を請けた越後の上杉謙信と川中島にて五回にわたって戦っている(川中島の戦い)。その後、上杉との和睦、信長に討たれた今川義元の所領、駿河への侵攻、北条との盟約決裂を経て織田家とは友好関係を築くも、信長の比叡山焼き討ち、足利義昭の信長討伐令に呼応し、上洛を決意する。三方原の合戦で徳川を破り破竹の勢いだったが、持病が悪化し甲斐への撤退を余儀なくされる。その道中死去(暗殺説あり)。享年53歳。

追記

疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山(疾きこと風の如く 徐かなること林の如し 侵掠すること火の如く 動かざること山の如し)「風林火山」はあまりにも有名ですよね。軍事では信長でさえ怖れた武将です。財政・政治に関しても手腕を発揮し、金山の発掘や大掛かりな治水工事も行い山国の甲斐を発展させました。また、上杉謙信とは川中島で何度も戦った宿敵でありながら、自分の亡き後は謙信を頼るよう子に遺言を残したり、謙信も信玄の死を知って声をあげて泣いたりと、互いに認めあっていたようです。
と、普通に調べたらわかる話はさておき、隠し財宝の話等、信玄には逸話があるのですが、その1つに実は徳川家康の父親だったという説があります。某寺院に徳川葵と武田菱が一緒に飾られているからだとか、家康が武田家を再興しているからだとか、普通に考えたら「こじつけ」感溢れる理由なんですが、DNA鑑定等科学的証拠がない事なんで、逆に「絶対」にない!とも言えないですよね?歴史は新しく発見された物があると日々変わります。現在定説になっている事が10年後には違うかもしれない。歴史に絶対はないんです!ミステリーがあって当たり前だと思います。だから歴史は面白いんじゃないんでしょうか?

posted by SRC副長 at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代の偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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