2015年02月23日

佐々成政

2015-02-22-20-42-01_deco.jpg
天文5年1月15日(1536年2月6日)
佐々盛政の三男として尾張国に生まれる。
通称は内蔵助(くらのすけ)。織田信長に仕え武功をあげ(一説には稲葉一鉄の叔父、常通を討ち取った)、黒母衣衆に抜擢される。
母衣衆とは信長の精鋭の者達で構成され、本陣と前線との伝令や軍監としての役割もあった。前田利家も赤母衣衆として活躍したが、利家の赤母衣衆より成政の黒母衣衆の方が格上だったと言われている。
長篠の合戦では鉄砲隊を率いて活躍したとある。
信長の命により柴田勝家が北陸方面へ侵攻すると勝家の与力となり、前田利家・不破光治とともに府中三人衆と呼ばれ活躍する。
信長死後は柴田勝家に与し賤ヶ岳の戦いにおいては柴田側として参戦するが、わずかな兵を差し向けるにとどまった。一説には柴田勝家の与力として勝家に与してはいたものの、織田家の後継者争いのおり、織田信行側に与した勝家に兄を殺された等の経緯もあり、実は勝家を嫌っていたとも言われている(異説あり)。勝家死後は秀吉に恭順すると見せかけ、越中(今の富山)から冬のアルプスを越えて関東の徳川家康に出陣を促すため会いに行く(有名な「さらさら越え」)。結局家康の説得には失敗し秀吉に攻められ降伏。越中を没収されてしまう。大阪にて秀吉の御伽衆として仕えたのち九州征伐に従軍、武功をあげ肥後を与えられる。しかし、一揆の勃発、鎮圧失敗等の責任により摂津にて切腹(一説では弁明のため秀吉に謁見するため大阪を目指したが許されず、摂津に留めおかれた)。享年53歳(異説あり)。

追記
大河ドラマ「利家とまつ」では利家と成政は友人として、またライバルとして互いに切磋琢磨してるように描かれていましたが、実は仲が悪かったみたいですね。成政が肥後の責任で切腹となった時にも「利家とまつ」では利家が秀吉に助命嘆願していましたが、ドラマだけの話みたいです。しかし実際の成政は実直な男で、家臣や領民にも慕われてたようです。最後は一揆の責任を取らされましたが指揮官としての能力も高く、その能力は秀吉も利家も認めていたようです。勝家と実は仲が悪かったと書きましたが、それでも自分の上官として裏切る事はなく、また家臣にも十分な録を与えた成政はリーダーとしては優秀だったんでしょうね。また、領民のため川に堤を築いたり(現在も残る佐々堤)等、慕われたのは今もなお健在で、以前テレビで早々に柴田勝家を裏切って秀吉に付いた前田利家を悪く言い、成政の功績を自分の子か孫の事のように話してらした富山県のおじいさんがとても印象的でした。

posted by SRC副長 at 08:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代の偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月20日

前田利家

7e3f02f3.jpg
天文7年(1538年)、尾張国荒子の地を支配していた前田利昌の四男として生まれる。若い頃は短気で喧嘩っ早く、派手な衣装を着飾るいわゆる 傾奇者だった。元服後、前田又左衛門利家と名乗り、槍の名手だったため「槍の又左」の異名を持つ。気性の荒さから信長の近習を殺害し追放される等苦労するが、美濃斎藤家との森部の戦いで功績をあげ復帰。信長の命で兄を差し置き家督を次の荒子城主となる。その後、浅井・浅倉との戦や石山本願寺との戦を経て柴田勝家の与力として活躍の場を北陸に移す。北陸方面だけでなく、播磨での戦い等でも武功をあげ、能登一国を治める大名となる。信長亡き後は柴田勝家に従い羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と敵対するも賤ヶ岳の合戦後は秀吉に従う(異説あり)。秀吉に降ってからも数々の武功をあげ、秀吉の天下統一に貢献。豊臣政権下において徳川家康らと共に五大老の一人となる。官位こそ家康のが上だったものの、豊臣姓を賜り、秀吉の嫡子(秀頼)の傅役になる等、秀吉からの信頼は五大老一だった。秀吉亡き後、家康が天下を狙うのを唯一妨げる存在だったが、慶長4年3月(1599年4月)大阪前田家屋敷にて没。享年62歳。
利家が亡くなった事により、家康の天下取りが確実な物となった。

好きな武将の1人です。漫画「花の慶次」では、甥の慶次に冷たくあたったり秀吉に媚をうったり年老いて気が弱くなった描写があったりとあまり印象は良くないですが、実際は慶次と同じ傾奇者。喧嘩っ早く主君信長の側近を口論から斬ってしまったり、秀吉とは友人関係だったんで互いに肩を揉み合ったりとかはしてたみたいですけど、年老いて弱気になるどころか、秀吉への謁見のさい、乗馬したまま城門をくぐろうとした事をとがめた門番に「われ、誰に喧嘩売っとんじゃゴラ〜!」(いや、実際の口調は違いますけどね)とまぁ、年老いても短気なじいさんだったらしいですよ。ただ、嫁さんの「まつ」には結構気を使ってたみたいですけど。どこの家庭でも(うちだけか?)嫁は強しです…ね。
posted by SRC副長 at 05:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代の偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月17日

真田信繁(幸村)

2015-02-18-12-34-33_deco.jpg
永禄10年(1567年)(異説あり)、真田昌幸の次男として生まれる。
没した武田家の領地を徳川、上杉間で争いになった時には真田家が上杉方に付いたため信繁は上杉に人質となっている(第一次上田城の合戦もこの頃)。
豊臣秀吉が信長の後継者となるころ、信繁は大阪に移り今度は豊臣の人質となる。
小田原攻めの際は石田三成、大谷吉継らと共に忍城攻めに従軍したらしいが定かでない。
関ヶ原の合戦では兄と袂を別ち父と西軍側に付き、約4万の兵で上田城に攻め寄せた徳川秀忠軍を3千5百の兵で退ける。しかし関ヶ原合戦は東軍の勝利に終わり、信繁は父と共に高野山にて蟄居となった。
大阪府冬の陣では高野山を抜け出し大阪城へ。徳川勢に大打撃を与え武勇を轟かす。徳川・豊臣が講和すると徳川家康から破格の待遇で誘われるが、断固として断り、夏の陣では再び豊臣方へ。
夏の陣では2千から3千の兵で1万5千の家康本陣に突撃し家康に2度も死を覚悟させる。家康に「真田日本一の兵(つわもの)」と言わせる安居神社にて討ち死に(逸話あり)。享年49歳(異説あり)。

大好きな武将です。そういう方多いんじゃないでしょうか?ただ、この幸村、実際に武功があったのは大阪の陣だけなんですよね。冬夏両方活躍してますが。漫画やドラマでは関ヶ原の時、上田城合戦でも活躍してますが、上田城で実際指揮を取ったのは父の昌幸。
信繁は兄が徳川方だったため、同士討ちを避けるためあえて戦わなかったという説もあります。それを考えるとたった2戦しか武功はないのに、緒大名に名が知れわたり、家康に「真田日本一の兵(つわもの)」と言わしめ、現在もなお根強いファンがいる(小説やゲームの影響もありますが、それでも!)真田信繁、いや真田幸村は凄い武将だなぁと思います。
posted by SRC副長 at 18:32| Comment(0) | 戦国時代の偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。