2015年02月25日

武田信玄ゆかりの地@

信玄ゆかりの地へ行ってきました。
まず向かったのは甲府五山と言われる五つの寺院。
最初に長善寺
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威風堂々とした立派な山門からはじまり
五重塔、三重塔が存在感を示す甲府五山筆頭と呼ぶにふさわしいお寺でした。信玄の母、大井夫人の菩提寺で、写真はないですが(ていうか撮影不可だったような?)、大井夫人の像が国の重要文化財に指定されているそうです。
宗派は臨済宗(単立寺院のため派はない)。
所在地は山梨県甲府市愛宕町。

次に能成寺
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甲斐善光寺から程近い場所にある能成寺。甲府五山と言うわりには、こじんまりした(敷地は広いです)感じのお寺で、比較的新しく感じたのですが、どうも火災で一度消失して建て直したみたいですね。
宗派は臨済宗妙心寺派。
所在地は甲府市東光寺町。

次が円光院
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信玄の正室、三条夫人の菩提寺です。
元々は清光寺という名前で甲斐源氏の始祖「源清光」が建立した、由緒正しい寺院です。そんな由緒正しい場所に行ったのに、写真が1枚…カメラマンのぱたきちくん!もっと写真撮ろうよ!
この円光院も臨済宗妙心寺派。場所は甲府市岩窪町。

その後、源氏の嫡流「河内源氏」の超有名人「八幡太郎」こと源義家の弟「新羅三郎」こと源義光が再興したことが起源の由緒正しい寺「東光寺」(臨済宗妙心寺派・甲府市東光寺町 甲斐善光寺の近く)と、信玄の嫡男(兄が廃嫡されたため)武田勝頼の墓所がある、こちらも由緒正しい「法泉寺」(臨済宗妙心寺派・甲府市和田町)にも行ったのですが…写真見当たらず…orz。また行く機会があったらたっぷり撮ってこよ(*T^T)
ちなみにランチは山梨名物「ほうとう」を食べました。
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(これは写真あるんかい!)
「ミニほうとう鍋」ってのを頼んだんですが、デカイ!普通にそばやうどんの丼なみの、いや、それ以上の大きさの鍋でした。美味しくいただいたんで、ペロっと全部食べましたが、野菜はゴロゴロたくさん、ほうとう自体もかなりのボリュームで、しばらく動けなくなるほどお腹いっぱいになりました。
posted by SRC副長 at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月24日

武田信玄

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大永元年11月3日(1521年12月1日)甲斐国武田信虎の嫡男として生まれる。幼名太郎、元服後に晴信と名乗る。
武田家は甲斐源氏の嫡流で、信玄が生まれた時には既に国固めはほぼ出来上がっていた。信玄は家臣と共に父信虎を追放し家督を継ぐ。その後信濃諏訪に侵攻。諏訪家、高遠家等を滅ぼし勢力を拡大する。その一方で、駿河の今川、相模の北条と盟を結び後顧の憂いを断つと、さらに信濃侵攻を激化、村上家を敗走させ信濃をほぼ手中に治める。しかし村上家等の要請を請けた越後の上杉謙信と川中島にて五回にわたって戦っている(川中島の戦い)。その後、上杉との和睦、信長に討たれた今川義元の所領、駿河への侵攻、北条との盟約決裂を経て織田家とは友好関係を築くも、信長の比叡山焼き討ち、足利義昭の信長討伐令に呼応し、上洛を決意する。三方原の合戦で徳川を破り破竹の勢いだったが、持病が悪化し甲斐への撤退を余儀なくされる。その道中死去(暗殺説あり)。享年53歳。

追記

疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山(疾きこと風の如く 徐かなること林の如し 侵掠すること火の如く 動かざること山の如し)「風林火山」はあまりにも有名ですよね。軍事では信長でさえ怖れた武将です。財政・政治に関しても手腕を発揮し、金山の発掘や大掛かりな治水工事も行い山国の甲斐を発展させました。また、上杉謙信とは川中島で何度も戦った宿敵でありながら、自分の亡き後は謙信を頼るよう子に遺言を残したり、謙信も信玄の死を知って声をあげて泣いたりと、互いに認めあっていたようです。
と、普通に調べたらわかる話はさておき、隠し財宝の話等、信玄には逸話があるのですが、その1つに実は徳川家康の父親だったという説があります。某寺院に徳川葵と武田菱が一緒に飾られているからだとか、家康が武田家を再興しているからだとか、普通に考えたら「こじつけ」感溢れる理由なんですが、DNA鑑定等科学的証拠がない事なんで、逆に「絶対」にない!とも言えないですよね?歴史は新しく発見された物があると日々変わります。現在定説になっている事が10年後には違うかもしれない。歴史に絶対はないんです!ミステリーがあって当たり前だと思います。だから歴史は面白いんじゃないんでしょうか?

posted by SRC副長 at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代の偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月23日

佐々成政

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天文5年1月15日(1536年2月6日)
佐々盛政の三男として尾張国に生まれる。
通称は内蔵助(くらのすけ)。織田信長に仕え武功をあげ(一説には稲葉一鉄の叔父、常通を討ち取った)、黒母衣衆に抜擢される。
母衣衆とは信長の精鋭の者達で構成され、本陣と前線との伝令や軍監としての役割もあった。前田利家も赤母衣衆として活躍したが、利家の赤母衣衆より成政の黒母衣衆の方が格上だったと言われている。
長篠の合戦では鉄砲隊を率いて活躍したとある。
信長の命により柴田勝家が北陸方面へ侵攻すると勝家の与力となり、前田利家・不破光治とともに府中三人衆と呼ばれ活躍する。
信長死後は柴田勝家に与し賤ヶ岳の戦いにおいては柴田側として参戦するが、わずかな兵を差し向けるにとどまった。一説には柴田勝家の与力として勝家に与してはいたものの、織田家の後継者争いのおり、織田信行側に与した勝家に兄を殺された等の経緯もあり、実は勝家を嫌っていたとも言われている(異説あり)。勝家死後は秀吉に恭順すると見せかけ、越中(今の富山)から冬のアルプスを越えて関東の徳川家康に出陣を促すため会いに行く(有名な「さらさら越え」)。結局家康の説得には失敗し秀吉に攻められ降伏。越中を没収されてしまう。大阪にて秀吉の御伽衆として仕えたのち九州征伐に従軍、武功をあげ肥後を与えられる。しかし、一揆の勃発、鎮圧失敗等の責任により摂津にて切腹(一説では弁明のため秀吉に謁見するため大阪を目指したが許されず、摂津に留めおかれた)。享年53歳(異説あり)。

追記
大河ドラマ「利家とまつ」では利家と成政は友人として、またライバルとして互いに切磋琢磨してるように描かれていましたが、実は仲が悪かったみたいですね。成政が肥後の責任で切腹となった時にも「利家とまつ」では利家が秀吉に助命嘆願していましたが、ドラマだけの話みたいです。しかし実際の成政は実直な男で、家臣や領民にも慕われてたようです。最後は一揆の責任を取らされましたが指揮官としての能力も高く、その能力は秀吉も利家も認めていたようです。勝家と実は仲が悪かったと書きましたが、それでも自分の上官として裏切る事はなく、また家臣にも十分な録を与えた成政はリーダーとしては優秀だったんでしょうね。また、領民のため川に堤を築いたり(現在も残る佐々堤)等、慕われたのは今もなお健在で、以前テレビで早々に柴田勝家を裏切って秀吉に付いた前田利家を悪く言い、成政の功績を自分の子か孫の事のように話してらした富山県のおじいさんがとても印象的でした。

posted by SRC副長 at 08:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代の偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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