2015年02月22日

前田利家ゆかりの地A

金沢を後にして能登へ向かい能登で一泊。
宿泊先では1人一匹蟹が付いてきて、テンションアップ!
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と、「美味しかったよ!」話はさておき、
翌日は七尾城址と小丸山城址に行ってまいりました。
七尾城址は七尾山の頂上。本当に山の上にあり車でパーキングまで行きあとは徒歩。車社会の現代でも大変だったのに昔の人はもっと大変だったろうなと思うような場所にあります。

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(上矢印1景色は最高です!)

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(上矢印1記念碑の前で記念撮影)

で、やっぱり山の上の城は大変だったみたいで利家は七尾城の麓、海からも近い場所に城を移します。それが小丸山城。
小丸山公園というだけあって、まさに公園のようなこじんまりした城址でした(いや、でっかい城址でも城址公園っていうところあるんだけどね^^;)。優雅な金沢城、山頂にある壮大な景色の七尾城を見た後だから余計にそう見えたかもしれませんが。
この小丸山城址に「利家とまつ」の銅像が。
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(上矢印1すみません、邪魔ですよね…。)
大河ドラマ大好きな僕は唐沢寿明さん、松嶋菜々子さんの「利家とまつ」を思いだしました。それもあって、感動も倍増。本当に行けてよかったです。ちなみに七尾市は料理も美味しいし、水族館(能登島)等もあり、歴史好きな人だけでなく、ファミリーでも楽しめます!何とか時間作って今度は子供たちを連れて石川の旅に行きたいと思います。
下矢印1七尾市観光協会のURLです。是非チェックしてみてください!

追記
このあと、利家の同僚にしてライバル、佐々成政の本拠地、越中まで足を伸ばしました。
メンバーの大半が次の日は仕事だっんで、本当に立ち寄る程度だったんですが、明るいうちに富山城を見る事が出来て良かったです。
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(上矢印1富山城)

この後、高速を走り、地元三河へ帰りました。道中夕食を取ったりで、解散したのが、深夜だった気がします。好きな場所へ気の合う仲間たちと旅するのは楽しいですけど、遅くなると次の日の仕事が辛いですね。





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2015年02月21日

前田利家ゆかりの地

結構前ですが、前田利家ゆかりの地、金沢へいってきました。
行くまで知らなかったんですが、金沢城って天守閣ないんですね。テレビ等でもよく石川門は映ってたけど、そういえば天守は見たことないですね。
それは置いといて、車を兼六園近くのパーキングに入れたのでまずは兼六園見学。
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さすが日本三名園に数えられるだけあって綺麗な庭園でした。しかし夜通し車を走らせ朝方着いたので庭園を楽しむ余裕がない人も…。
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ちなみに僕は余裕の表情でポーズ(^^)v
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って表情わかんないですけど^^;

余談ですが、兼六園にある日本武尊(ヤマトタケル)像、以前テレビで見たんですが、ハトが寄らないんですって。
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(上矢印1兼六園の日本武尊像)
銅像といえば周りにも銅像の上にもハトが取り巻き糞だらけ。でもこの銅像は糞どころか、ハト自体寄らない。理由は結構前のことなんでよく覚えてないですが、この銅像に含まれる成分が理由だった気がします。兼六園の公式サイトには書いてなかったです。
明治紀念之標といのが本来の名前みたいです。
下矢印1兼六園観光協会のURLです。

話を戻して…兼六園側から金沢城へ向かうと石川橋をわたり、そびえ立つ立派な城門「石川門」。裏門になるらしいですが、攻め寄せた敵の勢いを抑える工夫がしてあるそうです。横にそびえるのが、菱櫓(ひしやぐら)。天守のような形をしたこの櫓の屋根は鉛で作ってあり、いざというときは溶かして鉄砲の弾にするための工夫なんだそうです。
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(上矢印1石川門)
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(上矢印1石川橋で、菱櫓をバックに記念撮影)

金沢城全体はとても広く、前田家の存在感が伝わってきます。余談ですが、金沢城の下に前田利家公の銅像があります。金沢城公園内でも兼六園内でもなく、まさに道端と言っても過言ではない場所に。白鳥路という小川のような用水路のような感じの水辺の道なんですが、ただ、何となく寂しさを感じたんで。
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(上矢印1ぽつんと佇む利家公。なぜか烏帽子兜だけが金色)
どうせなら、五十間長屋の前に広場があるんでこういうとこに。じゃなくてもせめて金沢城内にほしかったですね。
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(上矢印1奥に見えるのが五十間長屋)

この後、近江町市場へ行き「海賊」というお店で海鮮丼を食べました。
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店内はカウンターのみで、行列の出来るほど美味しい海鮮丼。残念ながら大将(店長?)の健康上の都合で現在は店をたたまれたとか(金沢へ旅行に行った友人から聞きました)。
美味しいお店だっただけに本当に残念です。

追記
兼六園の日本武尊像と白鳥路の前田利家公像、画像が粗く見辛いと思います。なぜか写真がなく(撮った覚えあるんだけどなぁ)、観光協会等の写真をお借りしました。案内用の小さな画像を張ったため見にくくなってしまいました。すみません。
posted by SRC副長 at 07:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月20日

前田利家

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天文7年(1538年)、尾張国荒子の地を支配していた前田利昌の四男として生まれる。若い頃は短気で喧嘩っ早く、派手な衣装を着飾るいわゆる 傾奇者だった。元服後、前田又左衛門利家と名乗り、槍の名手だったため「槍の又左」の異名を持つ。気性の荒さから信長の近習を殺害し追放される等苦労するが、美濃斎藤家との森部の戦いで功績をあげ復帰。信長の命で兄を差し置き家督を次の荒子城主となる。その後、浅井・浅倉との戦や石山本願寺との戦を経て柴田勝家の与力として活躍の場を北陸に移す。北陸方面だけでなく、播磨での戦い等でも武功をあげ、能登一国を治める大名となる。信長亡き後は柴田勝家に従い羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と敵対するも賤ヶ岳の合戦後は秀吉に従う(異説あり)。秀吉に降ってからも数々の武功をあげ、秀吉の天下統一に貢献。豊臣政権下において徳川家康らと共に五大老の一人となる。官位こそ家康のが上だったものの、豊臣姓を賜り、秀吉の嫡子(秀頼)の傅役になる等、秀吉からの信頼は五大老一だった。秀吉亡き後、家康が天下を狙うのを唯一妨げる存在だったが、慶長4年3月(1599年4月)大阪前田家屋敷にて没。享年62歳。
利家が亡くなった事により、家康の天下取りが確実な物となった。

好きな武将の1人です。漫画「花の慶次」では、甥の慶次に冷たくあたったり秀吉に媚をうったり年老いて気が弱くなった描写があったりとあまり印象は良くないですが、実際は慶次と同じ傾奇者。喧嘩っ早く主君信長の側近を口論から斬ってしまったり、秀吉とは友人関係だったんで互いに肩を揉み合ったりとかはしてたみたいですけど、年老いて弱気になるどころか、秀吉への謁見のさい、乗馬したまま城門をくぐろうとした事をとがめた門番に「われ、誰に喧嘩売っとんじゃゴラ〜!」(いや、実際の口調は違いますけどね)とまぁ、年老いても短気なじいさんだったらしいですよ。ただ、嫁さんの「まつ」には結構気を使ってたみたいですけど。どこの家庭でも(うちだけか?)嫁は強しです…ね。
posted by SRC副長 at 05:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代の偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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